長寿庵三百年と江戸蕎麦の歴史

日本では蕎麦は西暦710年頃、奈良時代から栽培されていました。
最初の頃は実をそのままお米の様に食べたりしていました。 粉として使用する様になってからも、蕎麦掻きなどに用いられて 現在の様な麺のそば切りが現われたのは、江戸時代初期の慶長年間 (1596年頃)といわれています。

江戸にそば屋が登場するのは元禄のなかばから宝永年(1695-1711)と いわれ幕末の江戸では各町に一店のそば屋があり、売値の相談で会合 した時のそば屋は3763店だったと『守貞漫稿』にあります。 たぶん路面店よりも多かったと思われる屋台のそば屋も加えると、その 数は随分多かったようです。

お蕎麦の打ち方にきまった形はなく,日本全国各地方によって 様々で,その打ち方にはそれぞれの意味があります。 皆様がテレビなどで普通よく見かけるのが江戸の蕎麦の打ち 方です。約三百年に亘り 江戸の蕎麦職人たちが競って鍛錬し洗練されて昇華した江戸そばきりは素晴らしい日本固有の伝 統的食文化です。

現在、長寿庵は300店余りあります。 たまにお客様から「長寿庵はチェーン店なの?」と聞かれること がありますが、チェーン店ではありません。 全店それぞれの独自のメニューで、それぞれの地域のお客様に合った味で商売 をしております。

元々の元祖は元禄15年(1702年)、徳川家康が江戸幕府を開府して99年目、 赤穂浪士討ち入りの年、三河の国(愛知県)蒲郡(がまごおり)の片田舎から、 惣七という若者が江戸の街にやって来てきました。 江戸蕎麦の歴史でも紹介しましたが、当時のお江戸はそば切りブーム。 子供の頃から蕎麦打ちになじんでいた惣七は、猫の手も借りたい江戸の蕎麦屋 から引っ張りダコの存在になりました。

二年間たんまりお金を貯め、二十二歳で嫁を取り京橋五郎兵衛町に開業したの が長寿庵の始まりです。

その後、三河屋惣七はどんどん店を大きくし、明治になり6代目の宗七の時、 見込みのある従業員を次々と独立させ、それぞれに『長寿庵』を名乗らせたのです。 そして明治5年(日本が海外と同じグレゴリオ暦に変わった年)の大火の後、近代的に 都市開発された銀座竹川町(現在の銀座7丁目)にて前例のないレンガつくりの洋館の 蕎麦屋『長寿庵』を開業しました。

当時の銀座案内には、【蕎麦屋には珍しい黒壁の洋館。腰高の櫺子(れんじ)窓で、入口に縄暖簾を下げ、戸は赤・青・紫の色ガラス…】とあり【地代と 店員の高い銀座通りで蕎麦とて決して馬鹿にしたものでないことを長寿庵は証明している】とも書かれた。

そしてその弟子たちが親方を見習い、同様に暖簾分けをし 現在のような沢山の長寿庵になるのです。 今日でも暖簾の系統図を辿って行くと、全ての長寿庵は 306年前の総本店 三河屋惣七へとつながります。 残念ながらこの総本店は 昭和20年の東京大空襲後 再建 されることは無く、現在は惣七の子孫が同地にてビルを建 てておりこのビルに「元祖長寿庵の碑」が刻まれています。

手前ども肴町長寿庵は、先々代 庄之助が昭和7年に両国長寿庵より 暖簾を御分けして頂き、おかげ様で創業八十三年をむかえました。 どうぞこれからも お蕎麦の長寿庵を御贔屓に御願い申しあげます。

江戸蕎麦匠 庄之助

肴町 長寿庵 店主